上村一族

 上村姓の始祖は、清和天皇から発した清和源氏の名族土岐氏族、
ならびに小笠原氏族、又、大織冠藤原鎌足公を大祖と仰ぐ藤原氏の
諸族をはじめ、各地の豪族からも発祥し、わが国の名流として、
永い歴史を有する由緒ある一族です。
 現在十万三千余もある苗字の中、その系が少しでもわかっているのは、
三千余姓にすぎず、あとは残念ながら全くわかりません。
 全国の電話帳からの集計では上村の数は、大凡十二、三四二ありました。

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玉音放送

ポツダム宣言受諾後占領軍によってすべての放送局は統治下に置かれ
監視下のもとに行われたのでしょうか。
 「耐え難き耐え、忍び難きを忍び~」
我が家の並4ラジオからも聞こえていたのでしょうね。
 実は私は戦中派と言っても3カ月です。
首も据わらぬ乳児を空襲警報に怯えながら防空壕に避難した事を
おふくろから聞かされました。
幸い京都は文化財のおかげで機銃掃射だけで済んだそうです。
京都から西山を見ると夕焼け空のように、大阪や神戸がB-29の
重綻爆撃で茜色に染まっていたそうです。
 そう云えば中学校の3階建ての校舎屋上に高射砲の台がありました

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高校3年間の思い出

3年間の思い出

夏場のある日無線クラブの4人がM高の物理講義室で一夜を明かした時の話
3階から1階の生物の標本室にロシア人の白骨が置いてあるので、その前を通り東の階段から西の階段へと帰る順路で肝試しを行った。公正を期する為一人ずつ1階に降りるのを他の者が確認し又上がるのも同様であった。標本室の前を通る時、後ろから、ずるずると何かを引きずる音が聞こえ恐怖心は最高潮に達した。その後約1名(T君)がシャーシ、パンチ(穴を開ける道具)をエナメル線で結び、そろり、そろりと引きずっていた事が判明した。
何故その様な人骨が存在したのかは、定かではないが、生物教室のある助手が持ち込んだらしい。1年の生物の授業で助手が犬の雌雄同体のホルマリン浸けの標本を誇らしげに女生徒もいる前で披露していたのが鮮明に思い出され、その後遺跡を無断で発掘した事で新聞沙汰になった。
 話は前後するが小学校6年の或る日、放課後、例によって悪がき達(私も含む)がM山の小池の畔に狐の死体を見つけ棒に吊るし、学校に戻り石炭小屋の裏に1昼夜隠し、明くる日、例のM高の生物教室に持ち込みその助手に標本にしてくださいと、お願いした。2、3日後に訪ねて見ると死因は消化不良と告げられて無知な私達には納得のゆかない答えであった。その後その標本は如何なる経路をたどったかは人骨と同様、定かではない。また、その様な狐の死体を人目に触れずに2Km余りの道のりを運んだと言う事は、やはり林や森に囲まれた豊かな自然の御蔭に他ならない。(獣道は獣を運ぶときに役に立つんやね!)
 放送クラブの防音室でアナウンサーの女生徒に外鍵をかけ閉じ込め、わめいて居るところを見計らってアンプに火を入れ、除々にボリュウム上げ全校に流したら、生活指導と担任にこっぴどく絞られた。
 昼休み時間に沖縄民謡のレコードを流していたら某教諭が慌てて放送室に駆け込み宴会の時歌う替え歌だから即停めろと云われて、意図が分からぬまま社会人になった時これまた宴会で初めて理解した。(奈良の大仏―――)
自習時間に放送クラブということで女生徒の体育の授業にレコード、プレーヤとアンプの接続に駆り出され、曲に従って踊っている光景に、ぼうーと見とれていたが、飽きたので2枚目のレコードは例の民謡にすり替え消え去りその後、女教諭を見たら避けて通るようになった。(TKさん?)
 HRで当時の床板は木で誰かが踏み抜いて、穴が開いてたところに、新聞紙を置いて落とし穴作ったところ、まんまと担任の教諭に教壇の前まで呼び出された時、腰まで女生徒がはまった。その担任は人が不幸に陥っている時笑ってはいけませんと言いながら、あなたは顔で笑っていましたね。
ごめんなさい、はまった方のあの時の痛みと恥ずかしさは今でも覚えていますか。骨折でもしてたら賠償もので済まなかったかも。
国語乙の授業中、英語の内職をしていたら見つかり「荒海や 佐渡に横たう
天の川」を次の週までに英訳しろとの御達しで大恥を描いた。
 卒業後カブ号で散(歩)車していたら英語(Kさん)の教諭と出会い、良く出きる生徒と出来ない生徒しか覚えていないと言われて安心した。もちろん私は自信を持って後者です。
  未完の為、次週乞う御期待   製作著作 Y-U

注釈 カブ号(正式には本田のスポーツカブ50cc)中学2年の時、友達の親父のBS号、自転車の後輪のリムにゴムの輪をレバーで接触して走る原始的な、それこそ原付(原動機付自転車)の名そのままの乗り物で当時ガソリン1リッター50円で100キロ位走れました。その後新聞配達の友達のスズキのバイクを無免許で運転させてもらったのが病みつきになり、その頃住民票と健康診断書で申請すると許可証なる免許で原付が運転出来ました。私は大手筋の散髪屋のK.Tさんが新車のカブ号を買ったので乗せてもらいました。たしかタンクがクリーム色で、マフラーがツインシートの(原付の一人乗りなのに何故かしらツイン)近くまで上がっていて、今までのダサい量販商用車のカブ号とは、全くデザイン及びユーザを異にしていました。その時私はそのカブ号が欲しく欲しくて、たまりませんでした。その後親からの買ってもらえる可能性がなく自分でバイトするしかなく、 バイクがほしくて、あらゆるバイトをしました。当時スポーツカブ号は確か新車で8万円近くしたと思います。努力のかいがあって中古のカブ号を1万6千円で高校1年生の暮れに入手しました。
それからは私の恋人同様、感性の趣くがままに、決して裏切ることもなく
人生の思春期の大部分を私と共に歩んでくれたと思います。
 文化祭のある日、確か淀の競馬場の調教師?の娘さんで、私のバイクに乗りたいとおっしゃってバイクの操作方法を教え、クラッチのミートが判らず彼女がひざ小僧を擦りむく羽目となりました。そのバイクも大学時代の友達の弟に譲ったら、2ヵ月後ガードレールにぶつかってあえなき最期を迎えることとなりました。本人は怪我も無く大丈夫でした。

無線クラブで50MHzの夜間交信をしょうということで部室(実は職員室兼物理控え室)に、三々五々皆が集まった,定時制の部員が,1升びんをひっさげて来て、和やかな雰囲気のなか、顧問の先生(助手の先生かも)共々、祝杯をあげていてたら、先輩が交信中よっぱらって水晶を抜いた。(もう時効やで全てが)
 アマチュア無線で知り合ったIさんと正月二人で日本酒2升空けた。その時私は若干高校2年生でした。ごめんなさいカブ号で飲酒運転でした。
 深夜T君の親父の個人タクシーをメータを倒して無免許で淀競馬場の直線道路を何回か往復した。車の運転は教習所で教えてもらいましよう。
 N君の親父の軽トラを持ち出し藤森神社の境内の石垣にぶっけた。
放送クラブの後輩が校庭の鉄塔上で、ニッパー(電線を切る道具)で100ボルトの線を切っていたら感電し2名上っていたから、片方の者がニッパーを持った手を振り払った。感電した者は「目の前が真っ暗になり死ぬかと思った」振り払った者は「手をぶつけた時感電した」恐ろしい事件です。もちろん死者が出たら新聞沙汰どころか、今でこそ明かしますが、大変なことになっていたと思います。

なぜか3年間で起った出来事や事件は自分自身で驚くほど鮮明に覚えているのに、こと授業に関しては強烈に印象付けられた出来事以外は、全くと言って良いほどに覚えていない。何故かしら上記の出来事、事件に関しては罪に問われたり、新聞沙汰、停退学処分になった例は一度も無い。現在の社会情勢からすると、即停退学、逮捕、免職ものに違いない。個人個人が些細なことに関して無関心なのか、自己責任で行われた、たわい事に目をつむる大らかな、ご時世であったことには違いない。教諭と生徒たちの間に、いやお互いにもチクルらないという不文律が出来ていたように思う。それらが妙な力関係(勢力分布)のバランスを保っていたと考える。当時職員室に選挙ポスターが堂々と張ってあったのを記憶している。

修学旅行のバスの中、その当時は男女同席にせず、二人がけのシートと補助席とが接近のチャンスでしたが、大胆にもNさんは私の横に座ってくださいました。確か右側の前から1番目の席だと記憶しています。前の晩、女生徒の人気投票を手帳に書いてあったのを見せろと言われて、これは見せられないと断って、バシッとその手帳で彼女の額をたたきました。バスガイドさんや皆の注目の的になったと思います。水や食事、環境が変わるからNさんの唇はかなり荒れていたことを覚えています。当然のこと胃も荒れていたでしょう。
1年から2年に替わる春休みに、組単位でハイキングに行きました。その時
学生服の私は第3ボタンが取れて近くに歩いている女生徒のヘアピンを貰い、服の裏から止めました。その後修学旅行の列車で別の女生徒と隣のハコでトランプをしていたら、その子が泣いていました。ごめんなさい還暦を迎えるにあたって真摯に謝ります。名前は今でも覚えていますよ。

 なかんずく しこうして 傍線引いて覚えたまえ
高橋是清が素っ裸で寝ていた時、高橋これ着よとギャグを言ったのは、歴史の教諭貴方でしたね。一瞬笑いが取れず5秒ほど間が空き顔が引きつっていましたが、さりげなく次の授業に進んだのは、大したものです。その後判明したのは何年も同じ笑いを取るという実の姉からの教えでした。高橋是清がどういう人物なのか歴史にうとい私には、知る由もございません。
 おまえら全部落としたると、暴言を吐く体育の教諭。柔道で何人かは本当に
落とされたそうな。正気に戻る時が気持ちいいらしい?。
 工芸のおっさんは出席を2回取るそうな、途中で抜け出るやからがいるから。
もう亀の池も無いんだろう。
 話は変わりますが、M高から下板橋通を西に行くとJRの踏切がありましたが
あまりにも事故が多いので開かずの踏み切りというよりも閉鎖になって横断陸橋になっていますね。
 第二室戸台風で体育館のトタン屋根が吹き飛んで、床が水びたしになり、うねうねと床板(フローリング?)が、のた打ち回り1日休校になった覚えがあります。校門に行く途中の家の2階が吹き飛ばされ押入れや襖が見えていました。その後その家は平屋になっていました。我が家は2階の階段の外壁が抜けて空が見えていました。
 私事で申し訳ないんですが、以前住んでいた伏見の家は借家で、持ち家(借金のカタに貰ったいわく因縁付の家)は現在の住所にあり親父が新築いたしました。その伏見の借家も5年前取り壊されて今風の家が建っております。2005年5月吉日
 

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定年を迎えて

「私の定年プラン、夢」

ラジオ少年 原 恒夫様 2006年12月29日(金) 午前9時過ぎ~11時ご出演に関しましてのメールです。

私は京都在住の61歳の年金生活者です。
60歳で定年を迎えましたが今まで勤務していた緊張感から開放され
やっと自分の時間を持てるようになり何か自分にとってプラスになる趣味を持とうと思い下記のホムページを開設することとなりました。インターネットを通じて出会ったのが今回ご出演なされるボランテアの法人「ラジオ少年」
原恒夫様です。ラジオの製作で共通の趣味を持つことによって限りない喜びを
感じる今日この頃でございます。
ともすれば定年という人生の区切りから、まるで凧の糸が切れたように目的を持たない生活に陥る危険性があります。心のよりどころを失って生活習慣病を発症する恐れもあります。健やかに人生の後半を快適に過ごすには先ず趣味を持ち健康を維持する為適度な運動をすることだと思います。
京都は3方が山に囲まれていますので東山36峰、北山西山と、
京都一周トレイル コースがあり身近に自然と触れ合うことが出来ます。
コースには分岐点の番号の標識があり何回かに分けて歩きカメラに収めることを楽しみとしました。
http://homepage2.nifty.com/momoyama-radio/sakusaku/15_1.htm

以下の文章は私のホムページ、トップページのものです。

停年を迎えて私は夢多き懐かしい少年時代にもどりました。これからの人生、少年の頃に作ったラジオやラジコンを復元し、そして決して裏切る事のない、それらが私の唯一の友達であり心の支えであった事をこのサイトで確認しています。団塊の時代の人々が定年を迎え戦争の傷跡さえも見出せない世の中になりました。戦中戦後の歴史を見守りつつそれらを伝え続けた生き証人が真空管ラジオそのものなのです。どこの家庭にも1台はあったラジオ。いつもラジオは楽しいときも苦しい時も悲しい時も家庭団らんの主役でもあり、ささやかな癒しのひと時でありました。放送局は電波を送り続けそして
私達は受け続けました。ラジオを直すたび、夫々の家庭で鳴り続けた生活のにおいがします。ラジオを作るたび、まるで我が子が結婚するよう見守り続けます。私は真空管が有る限りラジオを作り続けたいと思います。

http://homepage2.nifty.com/momoyama-radio/

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東京大停電


先日の大停電では大都会の電力による依存度大であり送配電施設の脆弱さがまざまざと見せつけられました。クレーン船による接触で特別高圧電線が破損し地絡事故が起きました。完全な破断でなくて良かったのですが、なぜ送電網の修復に時間がかかっのは火力発電所などの重要施設を波及事故、大電流から守る為それらの施設は保護協調で自ら遮断機を落とします。電力網ではループが組んであり1箇所事故が起きても迂回送電が行われ、各変電所の操作員が施設の安全をひとつずつ確認しながら“手動”で操作するからです。以下に瞬停の様子をデータロガーのグラフにしました。これはマイクロスイッチの自重のよる自由落下で人為的に瞬停を再現したものです。
 http://homepage2.nifty.com/momoyama-radio/sakusaku/9_1.htm
病院や送水施設など重要施設では停電に備えて自家発電施設を持っていますがそれらが立ち上がるのに時間がかかりますので“つなぎ”に2次電池によるバックアップがあります。最近ではコンピュータを瞬停から守るためUPSがありますが某大学のスパコンは上記の方法で停電や瞬停からデーターの消失を守っています。某大学の付属病院では1500kWのガスコージェネ(常時稼動)1台、1500kWのジ⊶ゼル発電機(圧搾空気による起動)2台がありもはや、これらの装置は発電施設ではなく発電所という感覚です。

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平安義会の沿革


恩賜財団   平安義会の沿革

維新後、各藩にて夫々士族に授産の道を図ったが京都の官家士族には、その方策がとられ
なかった。
その故困窮し嘆く声が旧官家士族に拡がり、明治十一年に伊丹重賢、尾崎三良、桜井能監
等が三条太成大臣、岩倉右大臣の両公に説き、この事を陛下がきこしめされ、御手許金三
萬円を御下賜になった。
明治十二年七月一日付にて宮内郷徳大寺実則公より
1.無利息一五年据置の事。
2. 一六年目より向け一五年賦返納の事。
3. 右金額を依って資本金として京都旧官家士族貧困無産のもの漸次産業に就き候様、担任し成功を遂ぐべき事。
以上の達しと共に大宮御所の建物一部を戴いて烏丸今出川東入る処に移し産業誘道社を設立した。

授産場にて織物、陶器其の他の業種に就いたが、利益なく基本金の壱萬円を失ったので、
残金弐萬円で学校を設立しょうとして三条、岩倉両公に陳情し、その維持費を請願した。
有栖川 仁親王殿下が気の毒と思われ三条公と相談して陛下のお耳に入れ、宮内省より明
治一六年十月に今般平安学校設立の趣、きこし召され候に付、上京区第十一組常盤井田町
五四三番地御用邸貸渡の上、一六年より向ふ十ヶ年間年々二千四百円下賜候事、但比の建物共無税にて貸渡候事との御達があった。そこで五名の設立委員で平安義校規則を作り授
産場の地所建物を引継ぎ官家士族子弟の教育を開始し、明治二四年五月平安義会を組織
し明治二十六年七月伊丹重賢を会長とした。
その後年金壱千二百円増額されたが、義校の維持困難となった為廃校し、積立金の利子及
恩賜金で官家士族の俊秀で高等教育を受け度き希望者に学資を貸与する事を決議し、宮
内大臣の許可を得て貸給費規則を設けた。
  (以上は明治四十二年迄の経過であり、朝日新聞維新五十年記年号の所載より
   抜粋したものであります) 

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ナースの8K

 ナースの8K (3Kは除く)
1. 化粧のノリが悪い
2. 薬にすぐ頼る
3. 結婚が遅れる
4. 靴がよく減る
5. 靴下(パンスト)がよく破れる
6. 可愛くない
7. 髪の毛が傷む
8. 健康に無頓着
ドクターの8K     クランケの8K
1. 毛が薄くなる     1.血液抜かれる
2. 怪我が多い      2.検査が多い
3. 喧嘩が絶えない    3.血管穴だらけ
4. 血圧が高い      4.カテーテル挿入される
5. 健康食品に頼る    5.コッフェル付けたまま
6. けつを叩かれる(ナースに) 6.検尿出ない
7. 患者に襲われる    7.帰りたい
8. 監視が厳しい     8.家族に会いたい

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大文字山登ろう

 最近忙しくて大文字山へは登っていません。

約30分位で登れるのですが、やはり汗をかいて

最後の石段の所までくると、あともう一がんばり

老体に鞭打っている状況です。それにつけても

大の中心にあるほこらの前からの眺望は言葉にあらわせ

ないほど、すがすがしい気分になるのはなぜなのでしょう。

そしてその景色は毎日お天気のように変わります。

冬場の天気のよい日は大阪の高層ビルがまるで蜃気楼のように

肉眼で十分見られます。あれがツインタワービル、あれが梅田

スカイビル、ビルの形で判断でき飛行機に乗っているような

錯覚に陥ります。もうすこし足を伸ばして如意ヶ嶽のほうに登れば

三角水準点を見つけることが出来ます。興味のない人は、ただの

石に見えるでしょが、林の中にそれを見つけた喜びはまたひとしおです。

やはり大文字がどこからでも見えるということは、逆に言えばそこからの眺望は

すばらしものに違いありません。そしてそれを作った先人は

後世まで大という文字の裏に確固たるメッセージを書き込んだのでしよう。

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今日はしんどかった

 親戚のちえちゃんと同行で某プロジェクトの代取と会う。

また社員さんとお話をする。やはり女性を交えての談笑は、

かなりの成果をあげることができました。正面から攻める

のではではなくサイドからアタック、後半のネクタイの長さから

の会話は代取の、ひととなりを表していると思う。

また社員さんも私に対してよりも熱き思いを彼女に

ぶつけることが出来、仕事の一段落を知らしていただいた。

 一般的に人は1生の間に何人の人たちと出会うのでしよう。

約2万人といわれています。だから道を歩いているときも、

電車に乗っているときも駅にいるときも、ひとつの出会いだと思って

いい顔をしていよう、明日はどんな人と出会えるんでしょね?

もつともこんな爺さんを見つめる人は皆無に等しい。

今日はこれ位に はい おやすみ

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